次ページへ
火あぶり地蔵の伝説(瀬崎町)
 旧四号国道(日光街道)の瀬崎町と吉町の境に、「火あぶり橋」という橋がある。下を「河内堀」が流れ橋の際に通称「火あぶり地蔵」と呼ばれる地蔵堂が建っており、昔の処刑場跡と伝えられている。だが真実を裏付ける資料が全くなく、事実は不明である。
 今の地蔵堂の建坪は1間四方で、境内は3坪弱と狭いが、昭和7年国道拡張にあい削減される以前は36坪程あった。次に述べるのは、昭和33年頃調査した火あぶり地蔵尊の伝説である。
 昔、千住の掃部宿に母親と孝行娘が住んでいた。2人だけの生活であったが、借金があったので、娘は瀬崎村のお大尽に年季奉公に出ることになった。幾年か過ぎたある日、母が重い病いで倒れ、近所の人に面倒をみてもらっていることを知った。そこで娘は、主人にぜひ看病をしたいので帰りたいと哀願したが、許してはもらえなかった。想いは募り、悩み続けそのあげく、この家が燃えてしまえば、母の元に帰されるであろうと、安易な考えにおちいり放火をしてしまった。
 火つけの罪は、「火あぶりの刑」と定められていたので、娘はここで処刑された。瀬崎村の人々は哀れに想い、娘の霊を慰めるためにお堂を建立、地蔵を安置して供養したという。村人の優しい心根をしのばせる。
 また、あの有名な「八百屋お七」が、ここで処刑されたとする伝説もあるが、お七は天和3年(1683)3月29日、鈴が森の刑場で、放火の罪により火あぶりの刑となり、16歳の生涯を終えている。他にもこれと同様に鈴が森や小塚原の出来ごとを、ここと混同して伝えているものがある。
 現在、このお堂にある石仏を造立年代順に見ると、明和元年(1764)供養のため建てられた石塔がもっとも古く、続いて安永5年(1776)の光背付石地蔵、次が近隣14か村の信者によって建立された弘化5年(1848)の馬頭観音で、今の地蔵堂を大修理したのが昭和31年といずれも申年(さるどし)となっている。主尊の等身大地蔵菩薩は造立年代が不明である。
 土地の古老に申年のいわれについて聞いたところ、正確ではないが、次のようなことがいわれている。瀬崎町の浅間神社は神使が猿で、大祭を申年に行なっている。この神様は女神で嫉妬ぶかく怒ると大変と、昔縁年を決めるにあたり祈願をし許しをえたのが同じ申年であった。縁年は特に盛大にお開帳をしたという。それも昔のことで知る人も少ない。今でも縁日は変らず毎月24日である。
 草加史談会会員 浅古倉政氏
 
表紙へ戻る