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| 富士浅間神社(瀬崎町) |
谷塚駅改札口を右側に出て、T字路を南へ200mほど進むと旧四号国道に突き当たる。その正面が瀬崎町の鎮守浅間神社である。
現在の浅間神社は樹木が少なく駅に近いこともあって、心ない人達の自転車が多く放置され神域も荒されている。昭和7年旧国道(日光街道)が拡張される以前は、ときわ相互銀行付近まで檜(ひのき)の大木(約20本)や桜の古木などに覆われた参道がのび、境内に入るとおとな2人で抱きかかえるほどの太い老松が7〜8本、その他けやきや今では枯死寸前のモッコクなどをはじめとして、うっそうとした木立に囲まれていた。
裏てには最近埋められた瓢箪(ひょうたん)池や藤棚もあって大層りっぱな神社であった。
当社は古くから安産、子育、癪の神として知られ、常に近郷近在より信仰されている。祭りには多くの露店が並び、地元をはじめ近郊より農作業を早じまいして参詣に来る人が多く、さらに各地から富士講の団体が参拝に来るので大変賑わって来た。
例祭は6月30日と7月1日であるが、明治中期以前は陰暦の5月晦日と6月1日であった。富士講行者も戦後はめっきり減ったが、人出だけは露店とともに増える一方で、近年は市内一の賑わいである。
江戸中期以降、富士信仰が盛んになるにつれ、富士の神霊木花咲耶姫命(このはなさくやひめのみこと)を祭神とする浅間神社は、近郊各地よりぞうりばきに白衣姿で金剛杖を持ち、講中の紋章を染めた白鉢巻き、あるいは定紋つきの山笠で、鈴の音もさわやかに巡拝する団体が多かった。幕末から明治に入ると各地に模造富士が造られ、次第に七富士詣と呼び方も変っている。
当社の創建は不明で、古くは善貞庵(閻魔堂、現在の瀬崎小学校付近)にあったのを、明暦年間(1655〜1657)現在地に移されたという。別当寺はすぐ北側にある寺で寶光山安楽院善福寺と号し、寛永4年(1627)の開基で、今の本堂は大正10年の改築である。なお明暦年間以前の現社地は、すでに枯れた樹木などから見て、小高い山林になっていたのではないかと推定されている。
このほど草加市建造文化財に指定された本殿は天保13年(1842)再建されたもので、流れ造一間社で、前面に軒唐破風(のきがらはふう)、千鳥破風を配し随所に彫刻を配した善美な建物である。これは当時この地方に繁営した布晒、染色、形付業などの業者が協力し、瀬崎の富士講の人達が面目かけて造営したものであろう。
草加史談会会員 浅古倉政氏 |
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